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動かないか、動けないか


食事の量についての相談を受けることがあります。

基本的には、
よく噛んで食べていて、
食後に胃がもたれるようなこともなく、
すぐに動けるくらいであれば、
さほど量そのものは問題ではないでしょう。

 
食べ過ぎではと悩むよりも、
むしろ食べられることは元気な証拠と
喜んで受け止めていいと思います。


マクロビオティックの創始者・桜沢如一は
自己診断の基準として

「健康の七大条件」

を挙げておられます。

この2つ目の条件には

「ご飯がおいしい」

とあります。

(『ゼン・マクロビオティック』桜沢如一・著、参照)



欲望の存在そのものは
否定してはおられません。

欲望があるというのは健康な状態。
決して悪いことではないのです。


ただし、どこまでもその欲望の向くままにいくのでなく、
理性によって制御する必要もあります。


クルマに例えてみれば、
欲望はアクセル、
理性はブレーキ。

アクセルだけでは
いつかどこかにぶつかってしまって動けなくなるでしょうし、
ブレーキだけでは動けません。

自分の思うように動き、止まるためにはどちらもが必要なのです。


もしも「食べ過ぎ」を心配するのであれば、
食欲そのものについて悩むのではなく、
食べるという行為について、自らの意志でもって
「食べない」という選択をできるかどうかが問題なのです。


「腹八分目に医者いらず」のごとく、
八分目で箸を置くことができるかどうか。

もしくは、一食や二食抜いてみることができるかどうか。


それができずに食欲のままに食べ続けてしまうと、
やがては病気になったりして
「食べられない」という不健康な状態になってしまいます。


動ける状態のときに「動かない」という選択肢を持たず、
闇雲に動き続けていたら、
どこかのタイミングで「動けない」状態になってしまう。

強制的にストップをかけられてしまうということ。


自分の身体の声を聴く。


一流と呼ばれる人たちは、
この辺でやめておこう、という一線を持っています。

動けなくなるまでやる人というのは、
三流で止まってしまうものです。

痛みを感じていても、
そのうちによくなるだろう、と、
身体の声を無視してしまう。

成長が見込めなくなるのも止む無しかとも思います。


まず「正しい」の意味を知ること。


「正」という字は
「一」に「止まる」と書きます。


自由に動いていくなかで
「ここら辺りのラインで止まろう」
と自分をコントロールしていくことが学びになるのです。


止まるところの「一」という線は、
その人によって、
またそのときどきの体調によっても
変わってくるものです。

人から「ここだよ」と教えられるものでもなければ、
人と比較するものでもありません。


自分自身に問いかけ、
ときには迷いながらも動いていくのが
生きているということなのでしょう。


なんでもが平均化・標準化されていくなかで、
そこに合わせる必要はないのかも知れません。
自分なりの程度というものがあります。


正しい食事も、
正しい運動も、
同じことですね。


自分自身にとっての欲望の整理術、
持ちたいものですね。


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